株式会社エイジング・サポート

いのちから学ぶということ

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いのちから学ぶということ

エイジングと介護の学校「エイジング・サポート・アカデミー」に
興味を持っていただきありがとうございました。

「老いと病気を受容」

人生、健康、介護、総称して「エイジング(加齢)」は人それぞれです。

だからこそ、自分で決める介護選び、そのために学びが必要なのです。

共感していただいた方々と、共に学び合えることを楽しみにしています。

(再考)いのちから学ぶということ

「いのちから学ぶ介護選び」という表現を何度も使わせていただきました。

介護の先にある人生の終末期、そして死

誰かがそのいのちをつなぐことによって、いのちは永遠と人の記憶の中で生き続けます。

私がエイジングと介護の学校「エイジング・サポート・アカデミー」で皆様へ伝えたいことの究極のメッセージです。
ぜひ、いのちから学んでください。
そしてそれが可能となる「介護選び」をしてください。

小川から送る最後のメッセージ
それは、いのちをつなぐためです。

自死、そのいのちから学ぶ

72歳で自らいのちを絶った男性がいました。

朗らかで人を笑わせる陽気さを持っている反面、筋が通らない曲がったことが許せない性格です。

「人に後ろ指を刺されるようなことはするな」と、息子たちにもよく諭していたものです。大きな病気をすることもなく定年を迎え、
ウオーキングなど健康な体づくりにも余念がありません。

しかし、60歳代後半から少しずつ自分の歯を失っていきます。
老いの始まりです。
いさぎよく一気に総入れ歯にしてみたものの、その入れ歯がどうもしっくりきません。
歯科医によると入れ歯が合わせにくい下顎の骨格も原因のひとつだったようです。
楽しみであった毎日の晩酌も固い酒の肴でというわけにはいかなくなりました。

70歳になった頃に間質性肺炎を発症します。身体がどうも言うことをきいてくれなくなりました。
意外なところで転倒することもあり、そんな自分に不安が襲いかかります。

もともと何事にも凝るタイプです。自分なりにウオーキング仲間などからかき集めた情報をもとに医者通いを始めました。
しかし思うように回復していきません。

どうしても、自分の病気が受容できないのです。

知らない間にあちこちの病院から複数の薬をもらい、その薬にも依存し始めます。

一度入院し検査などもしてもらいました。
その際に担当医師が無造作に放った「回復の見込みなし」という言葉に傷つき激しく落ち込んでしまいました。

そうこうするうちに
少しうつ症状が出始めてきたようです。大量に服用する薬の影響も疑がいました。
一緒に暮らす妻や長男のアドバイスが気に食わなくなってきます。
信頼されるべき家族に、全てが否定されたという被害妄想も若干出始めました。
家族間の信頼関係も一気に崩れかけていきます。
今度はそのことが気にかかります。
一緒に暮らす家族から突き放されたと感じると、
離れて都会で暮らす次男へ電話を入れ、愚痴をこぼします。
時には電話口で感情失禁を起こし、声を上げて泣いてしまうこともありました。

そして、ぽつりと「死にたい」と口にするのです。

心配になった次男は、長男や母親へ連絡をとり状況を尋ねます。
そして老いた父の変化を受け止めざるをないことを自覚していくのでした。

ある1月の夕方、出張に出ようと羽田空港へ着いた次男のケータイ電話が鳴りました。
父の急変を知らせる連絡だったのです。
電話をくれたのは実家の隣に住むご婦人からです。

母と兄に代わって電話をしたというのです。

詳しいことは話してくれません。「あなたのお父さんが先ほど亡くなったようです」と告げるだけです。
代わりの連絡に感謝を伝えながらも「母や兄がなぜ私へ直接連絡をくれないのでしょうか」と尋ねると
「警察の方が・・・」とお茶を濁します。これ以上の追求をあきらめて、電話を切りました

「伊丹空港行き」の飛行機を変更しようとしましたが、実家に一番距離が近い、
当日の「三沢空港行き」はすで無い時間帯です。
運よく最終の「青森空港行き」の搭乗券を確保し、順調に飛行機から電車を乗り継げば、
その日のうちに実家へ到着できることも確認し、飛行機に乗り込みました。

ずっと「何が起きたのだろう」という不安は止むことはありません。

「父は死んだ」

これは事実であることは間違いがなさそうです。

「母と兄はどうなっているのだろう」と思っても飛行機の中からは連絡の付けようもありません。
不安とはやる心が押し寄せてきて眠ることもできません。
そんな中、飛行機に軽くショック感じます。

その後に「大雪のためにしばらく着陸を見合わせる。
このまま悪天候が続くようであれば羽田空港に戻る」という機内放送が流れ、
相当の時間、高空を旋回しながら待ったような気がします。

しばらく経ってから天候が回復し青森空港着陸の放送が流れました。
大雪の青森空港に無事に到着したものの時間は大幅に遅れ、
すでに実家に向かう電車は動いていないのです。

まずは実家の兄のケータイへ連絡をいれました。深夜であるにもかかわらず、兄はすぐに電話に出てくれました。
そこで知った父の自殺、
母の一言でとっさに表情を変えて自宅の隣にある車庫兼倉庫へ向かった父は、以前から用意してあったというロープを首に巻き、
そこで自らいのちを絶ったのです。

大雪の青森市内のホテルで仮眠をとり、早朝の電車で実家へ駆けつけ、変わり果てた父と対面し、
首筋に残る傷を見ながらあふれ出る涙を止めることができない次男でした。

そして、告別式で参列者に「父の最期の死に方ではなく、72年の生涯そのものに思いを馳せてほしい」と訴え、
父の人生を丸ごと受け止める家族の決意を伝えました。

しかし父と一緒に暮らしていた長男は母と相談し、父の最期の場となった車庫兼倉庫ごと、家を建替えてしまいました。
次男は父の死を封印し、自分の心の中に仕舞い込んでしまったのです。
3年間、父のことを他者に語ることはありませんでした。

突然の死
「老いと病気を受容」することができないままむかえた愛する家族の「突然の死」

残された家族はどのようにして受容していくのでしょうか。
いのちを引き継ぐために、何が必要なのでしょうか。

長男が建立した父の墓には「安らかに」という言葉が刻まれました。
最期は心穏やかに生きることができなくなってしまった父に、
「安らかに眠ってほしい」という長男と妻の願いが込められました。

残された家族はそれぞれの立場で、自ら絶たれたいのちを引き継いだのです。

次男は今、老人ホームの看取り援助を通してたくさんのいのちをつなぎ始めました。

そして、エイジングと介護の学校「エイジング・サポート・アカデミー」へ

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